私が化粧品を作った理由

アクシリオ開発者 井上龍弥はじめまして、化粧品の製造メーカーをしている井上龍弥と言います。

私は生まれつき極度の乾燥肌・敏感肌で、物心ついたころからずっと悩んでいました。
「これは生まれ持った肌質だから仕方がない・・・」とあきらめかけたこともあります。

当時は、正直言って、自分の肌が健康になることはもちろん、ましてや、化粧品を作るなんていうことは、考えてもいませんでした。

でも、ひょんなことから化粧品業界に就職したことをきっかけに、 今では、私自身がプルプルの健康な肌になりました。

そして、自分と同じように肌トラブルでお悩みの多くの方々に、正しいスキンケアのアドバイスを行っています。
その数は、この十数年で十万人以上になりました。

その十万人以上の方々が実践されたスキンケアの情報をお届けするのがこのサイトです。
ぜひ、あなたの肌トラブル改善にお役立ててください。

ところで、男の私が、なぜ、化粧品をつくることになったのか?
よく不思議に思われるので(笑)、ここでその理由を少しお話したいと思います。

化粧品との初めての出会い

平成8年の春、当時22歳の私は某大学の経済学部を卒業後、地元の建築資材会社に営業マンとして入社しました。

いつか起業したいと常々思っていた私は、「社会人になったら、ガムシャラに働こう!」と思っていました。そこで、作業員のような仕事から営業まで、選り好みせずにやり、私なりに頑張っていました。

でも、やがて、その会社に自分のやりたいことや将来性がないと気づきました。だから、たったの1年半ではありましたが、退職しました。次の仕事も決めずに退職をしたため、とにかく、なんでもやってみようと思い、その後、3つほど職を転々としていました。

そのころの私は、良く言えば好奇心旺盛
悪く言えば、我慢ということを知りませんでした。
何か、「やりたい!」と思ったら、もう進まずにいられなかったのです。
今でも、そんな迷惑野郎の気質は残っていますが。

そんな中、知り合いだった人から、「うちの会社に来ないか?」と、ありがたい声をかけてもらったのです。

その方は、ある化粧品製造会社の専務でした。
以前に、フラフラといろんな仕事をしているときに知り合って、それ以来、なぜか、ものすごくかわいがってくださっていました。
仕事の誘いも、最初は冗談だと思っていました。

しかし、実際に、その会社の会長と食事のセッティングまでしていただいて、会長直々に、「話は聞いてもらったと思うけど、うちに入社しないか?」と、誘ってもらいました。
これが、私と化粧品との初めての出会いとなりました。

「井上君、社長をやってみないか?」

当時、その会社は、化粧品の製造業から、直接販売も行う業態に変わろうとしていました。
そのため、営業力の補強をしていたのです。
その補強の一環として、私が採用された訳です。
専務から見れば、なぜか、私は営業ができるように見えたようです。
期待されるのはもちろん嬉しいことですし、新しいことにチャレンジできる楽しみに、ワクワクしていたことをよく覚えています。

でも・・・道のりは平たんではありません
自慢じゃないですが、化粧品のことなんて、何一つ分かりません
「化粧水ってどうやって使うの?」「美容液って何??」というレベルです。
大学の専攻も文系だったために、化学もチンプンカンプンです。

そこで、入社して最初の半年ほどは、製造工場に勤務させてもらい、製造工程に従事しました。
そして、それらの業務が終わった後に、化粧品について教えてもらいました。
時間にすると、朝9時から18時までは工場で働き、そのあと、食事をして、朝方5時ごろまで化粧品の勉強です。

当時は、睡眠時間に3時間取れたら良いほうでした。
今なら、体力的にかなり困難ですが、若いからか、好奇心のおかげか、教えてくれる人がうまかったからか、それほどツラくはありませんでした。
それどころか、非常に充実した楽しい日々でした。

ちなみに、工場では商品の充填やキャップ締め、箱の組み立てなど、何でもやりました。
そうした工程で、いろいろな化粧品の容器やパッケージのデザインがあることを学びました。

そして、夜中の勉強では、化学の知識をたたき込み、研究室にも入れてもらい、実地で化粧品の作り方を教えてもらいました。
私の化粧品に関する知識の土台は、このときに培われたのです。

その後、本来の営業職を行い、1年ぐらいが経った頃に、会長からこんなことを言われました。
「井上君、君はいずれ独立したいと言ってたね。
それなら、練習のつもりで、子会社の社長をやってみないか?

好奇心旺盛で、何も考えない(笑)私は、二つ返事で了承しました。
このときは、その後の苦労を何も想像できないままに

というのも、実はこの子会社、資本金1,000万円の株式会社でしたが銀行の口座には、なんと、残高が50万円くらいしかありませんでした。
あとは、在庫の山です。
つまり、放っておいたら数か月後に倒産する会社だったのです・・・!

運命を決める一冊の名簿

会社の口座残高は50万円で、数か月で倒産という絶望的な経営状態であっても、だからといって、後戻りはできません
とにかく必死でした。

使えるお金もないので、とりあえず、化粧品関係の企業名簿を買いました。
今は、ホームページがあって、世の中にどんな会社があるかを簡単に、それも無料で調べることが出来ます。

でも、当時は、そんな便利なものはありません。
書店で化粧品関係の会社の名簿を買うぐらいしか手段がありませんでした。
その名簿には、会社名、住所、代表者、簡単な経歴、取扱品目が載っています。

確か、5万円ぐらいだった記憶があります。
残高50万円のうちの、5万円です。
この1冊の名簿に、会社の命運を賭けたのです。

私は、まずその200社全部に、OEMの提案書を送付しました。
OEMとは、委受託製造のことです。

実は、化粧品メーカーといえども、大手以外は、工場まで自前で持っているところは少数です。
また、自社の商品をすべて、自前の工場で作っているところは、ほとんどない、と言っていいでしょう。

これは以前にもお話しましたが、工場の技術者・設備・経験などによって、作れる化粧品と作れない化粧品があるのです。
また、自前ですべての設備を持つのはリスクが伴うため、中小規模の化粧品メーカーは、大半がOEMで商品を作っています。

当時私が働いていた会社は、こういった化粧品メーカーの商品の製造依頼を受けることによって、利益を得ていました。
だから、簡単に言えば、私の仕事は化粧品を作りたい会社を探すことです。

で、200社に「こんな商品を作りませんか~?」という提案書を、それぞれの会社用に作って、送ったのです。
1社、1社、微妙に業態や扱い品目が違うために、それを考慮して提案書を作るのは、骨が折れました。

しかし、時間がかかればかかるほど、会社が倒産してしまう可能性が上がるので、何事もスピードが全てです。
だから、こうした書類を作っている間は家に帰らず、会社に寝泊まりしていました。

もちろんベッドなんてありませんから、応接室にある応接用のソファがベッド代わりです。
風呂は近所に入りに行き、朝は出社して来たスタッフに、起こしてもらうという毎日が続いていました。

逆に、提案書を送ったあとは、何もすることがありません。
というより、お金がないので何もできませんでした(笑)

ゼロからのスタート

この200社に送った提案書がダメなら、倒産です。
ドキドキして先方からの電話を待っていました。

1週間経っても、何の音沙汰もありません。
やっぱりダメか。
自分の実力はこんなものか・・・。
と、諦めかけたとき、静まり返った会社に、一本の電話が鳴り響きました

それは、とある中堅の化粧品メーカーからの電話でした。
今はテレビCMをガンガンやっているような大手ですが、当時はそこまで大きくありませんでした。

私にとっては、最初で最後のチャンス!
早速、東京に行って、担当の方と打ち合わせしました。
そこからは、それまでの苦労が嘘のように、トントンと話が進みました

担当者の方は、すごく心の広い方で、私はこの方からも業界の裏話や慣習をいろいろと教えてもらうことができました。
そんなこんなでOEMも1社が決まって、とりあえず延命することができました。

しかし!
まだまだ安心はできません。
次に私が取り組んだのは、大量にある在庫の処理です。
商品自体は良いものだったのですが、私には販売するところがありません。

しかも!
会社を任せてもらう時に、会長からある条件を出されていました。
それは、「これまでの営業職で作った美容業界のコネを、一切使ってはいけない。」
それまでの人脈は一切使えない、本当に、ゼロからのスタートだったのです。

26歳の決意

コネ・人脈は一切つかわない。
この条件のもと、大量に抱えた在庫を販売するために、これまでこの会社がやったことがない新しい業態である『代理店制度』を試すことにしました。

当時、某リクルート社から、『アントレ』というビジネス雑誌が発刊されていました。
ありとあらゆるビジネスの種が掲載されている雑誌です。
そこに広告を出し、東京ビッグサイトで行われる催しにブースを出して、1年ほどの時間をかけて、60社ちょっとの代理店網を築きました。

その後は、代理店の方たちが商品を販売しやすいよう、商品や使い方、マッサージ方法の講習など、全国を飛び回る日々でした。
同時に、その他にもOEMをちょこちょこと取っていき、会社は、なんとか安定して行きました。

ある程度の成功をしたため、親会社からの待遇も非常に良くしてもらいました。
社用車に外車を用意してもらったり、経費もある程度自由に使うことができました。
また、会長からは信頼をされ、いろいろな仕事に同行させてもらい、見分を広めることができました。

26歳の若造には、本当に贅沢すぎる待遇です。
しかし、その頃から、「本当の意味で、自分の力を試してみたい!」という想いがどんどん大きくなってきました。
『独立』ということを、これまでよりもさらに現実的に考えだしたのがこの頃です。

無謀な挑戦

私は、特に根拠もなく、「28歳で独立しよう!」と思っていました。
でも、雇われ社長とは言え、一定の成果が残せたことに自信がついたのか、予定より2年早く、26歳で独立しようと考えたのです。

今思っても、26歳にも28歳にも何の根拠もないし、さらには厚遇されているのにも関わらず、「やりたい!」と思ったことに対して、なぜこんなにこらえ性がないのか。
自分でも不思議です・・・まあ、ただ単に、アホなだけかもしれませんが・・・。

また、当時は結婚してまだ半年しか経っていませんでした。
嫁さんからすれば、結婚した時は社長
それがわずか半年で、無職
今考えると、ほとんど詐欺ですね(笑)

でも、特に反対されることはありませんでした。
また、私や嫁さんの親もまったく反対しませんでした。

他の人には、
「絶対に無理!」
「今の待遇を捨てるなんて頭おかしいのか?」
「おまえなんか、失敗するのは目に見えてる!」
「たった1回の成功で調子にのっちゃって。」
など、周りは反対や揶揄する意見が大半だったので、身内が賛成してくれたことには、精神的にすごく助けられました。

感じ始めた違和感

会社からの理解も得て、平成12年に、いよいよ独立しました。

今思えば、無謀だったと思います。
ご覧の通り、ほとんど勢いだけでやってしまいました。
そんな私を待ち受けていたのは・・・。
当たり前ですが、苦労の連続でした。

まず、とにかくお金が無かったので、会社の設立も何度も法務局に行き、自分で登記しました。
株式会社の設立時に必要な口座を開くことを銀行から拒否され、会社づくりですら、思っていた以上に大変でした。

融資を受けるなんて、夢のまた夢です。
幸い、事務所の机やイスもお世話になっていた会社の方から、中古品を無料で譲り受けることができました。

そんなこんなで悪戦苦闘しながら、何とか『株式会社』をつくることができました
ここで、一息ついている場合じゃありません。
これからが本番です。

実は、この頃、ある違和感を感じ始めていました
当時は、以前に行っていた代理店業務も引き継いでいたのですが、この業態に対する違和感です。
しかも、その違和感は、どんどん大きくなっていきました。
というのも・・・。

代理店は、いろんな商品を扱っています。
私の扱っている化粧品など、先方からすれば数ある取扱商品のひとつです。
だから、お客さんへのフォローがどうしても手薄になります。

また、代理店の方は化粧品に関する知識も少なく、十分な対応が出来ていませんでした。
さらに、代理店から来る要望に出来る限り応えていたのですが、その内容が、お客さんが望んでいるものではなく、代理店が売りやすくなる要望ばかりでした。

確かに、売り上げはあがるものの、どうしても違和感をぬぐい去ることが出来ませんでした
結局、しばらくして、代理店業務は以前の会社に引き受けてもらいました。

独立した本当の理由

なぜ、雇われ社長の時は何も感じなかったのに、独立した途端、違和感を感じ始めたのか?

やはり、雇われているときは、仕事に対してどこかで他人ごとだったのだと思います。
責任は、会社が取ってくれる。だから、多少無責任な部分があったとしても、気にならなかったのだと思います。

でも、独立して自分が社長になったら、そうはいきません。
すべての責任は、自分の責任
そう考えると、例え、些細な違和感でも、どうにも無視できなくなっていました。

この経験から、「自分の作ったものを自分の手で販売し、お客さんにも自分で対応したい!」と考えるようになりました。
今から思うと、自分で100%の責任を負った仕事するために独立をしたかったんだと思います。

でも、自分が全ての責任を負うということは、予想以上に大変です。
すべて、26歳の私の肩にかかってきます。
その重みを受け止めながら・・・こうして、お客さまに提供するための、新しい化粧品づくりが始まりました。

パートナーを探して

まずは、パートナー契約を結ぶ製造工場、研究所探しから始めました。
しかし・・・門前払いなんて序の口で、約束したにもかかわらず、会ってくれないこともありました。

目の前で、名刺を捨てられたこともあれば、何時間もかけて訪問したのに、無駄足に終わったことも一度や二度ではありません

そりゃ、そうですよね。
一応、会社の代表でしたが、26歳の若造です。
しかも、唯一の社員1人は、嫁さんです。
怪しすぎます

さらに、私が発注できる数なんてしれてます。
当時の化粧品製造は、最低でも1万個以上は必要です。
数量の話しになった時点で、「そんな小ロットでは化粧品は作れませんよ(失笑)」という感じで、話しは終了。
相手にしてもらえるわけがありません

それでも、「どこかに自分の探しているパートナーがいるはず!」と思い(込み)、全国を渡り歩きました。

気がつくと、1年があっという間に過ぎていました。
でも、苦労した甲斐があって化粧品業界を超えた人脈と知識を得ることが出来ました。

最終的には、今商品を作ってもらっている会社(工場)を見つけることができました。
今思うと、よく取引してくれたと思います。

めちゃめちゃ敏感肌で乾燥肌の私に合う化粧品が基本ですから、商品作りには、異常に口出しする。
試作品は納得するまで、何度も何度も作らせる。

本当に生意気だったと思います。
工場の方たちには、感謝してもしきれません。

こうして、やっと自分が納得できるスキンケアの開発に取り組むことができました。
そうして、さらに1年後に生まれたのが、今、皆さんにお使いいただいている『アクシリオ』シリーズです。

しかし!
商品が出来るまでの1年の間、実は、商品開発以外に、かなり険しく、困難な道のりがあったのです。

不安だらけの『インターネット』!

その時の私は、アクシリオシリーズの販売方法に頭を悩ませていました。
以前の雇われ時代の経験から、代理店制度のように、他の人や会社に任せる方法では、販売したくありませんでした。

自分で責任を持つ
ために独立したのですから、やはり、販売方法も自分で責任を持つために、直接、お客様に販売をしたいと考えていました。
かと言って、化粧品店を開くようなお金はありません。

また、この頃は化粧品と言えば、百貨店やドラッグストアで販売されるものが主流で、そんなところに置いてもらうようなルート(コネ)も持っていません。

さあ、どうしよう。
いろいろと悩んだ末、私は、『インターネット』での販売方法を選びました。

今でこそ、インターネットを使って、ネットショッピングをするのは当たり前ですが、当時は、誰もそんなことをしていませんでした。

時代背景的には、さまざまな業界の大手企業がインターネットで販売するために、大量のコストを使い、失敗していました
その結果、「インターネットでは、ものは売れない」と言われるようになり、大手の企業も撤退している時期でした。

ましてや、化粧品は、お店やデパートなどで肌に塗ってもらい、気に入ったら購入する、という方法が常識の時代です。
他には、訪問販売や、いかがわしいマルチ商法の化粧品などはありましたが、どれも、大手の化粧品メーカーであったり、手に取ってもらえる状況での販売が一般的です。

だから、私がインターネットで化粧品を販売すると言ったとき、周りにいた人は全員、「化粧品をインターネットで販売するなんて、失敗するに決まってる!」「大手企業だって失敗したのに、お前みたいな若造にできるわけがない!」と、言い切りました。

でも、なぜか分かりませんが、私には確信がありました。
絶対に売れるはずだ、と。

振り返れば、私には他に選択肢がなかったことも、決断の一因であったと思います。
しかし、主には『勘』と、人にダメと言われたら、どうしてもやりたくなる『天の邪鬼(あまのじゃく)の特性』が、いかんなく発揮された結果と言えるでしょう。

段ボールの上で生まれたホームページ

決断をしたら、ここからはやるしかありません。
とりあえず、なけなしのお金で、安いパソコンを1台買いました。
パソコンデスクを買うお金がなかったので、段ボールの上に置いていたのを覚えています。

次に、ホームページの作り方の勉強です。
メールですら、ろくにやったことがない私と嫁ですから、
「これでいいのかな?」「違うって!」と、2人で試行錯誤しながら、なんとかかんとか進めます。

今でこそインターネットを見れば、ホームページの作り方はどこにでも書いていますから、簡単です。 でも、当時は、そんな情報はどこにも書いていません。
とりあえず本屋に行き、分厚い専門的で分かりにくい本を買ってきたので、これを理解するしかありません。

ただ、仕事がほとんどありませんから、時間だけはたっぷりあります
読んでは試し、修正し・・・を繰り返し、今見るととても恥ずかしいホームページではありますが、なんとか、完成させました。

しかし!
ホームページができたからと言って、売れるわけではありません。 当然ですよね。
一向に、売上は上がりません

その頃のアースケアは、少しのお客様はいたものの、会社とは思えない、少ない売上です。
会社の月商より、サラリーマン時代の私の初任給の方が多かったぐらいです。
そんなうまくいかない日々が続きました。 そして・・・・。

不眠症と孤独

そんな状態が続いたせいか、ある日突然、私は不眠症になってしまったのです。
2日に1回、2~3時間しか眠れなくなりました。

今まで多忙な仕事をしていて、「眠る必要がなかったら、良いのにな~」と、よく思っていました。
仕事がしたくてしたくてたまらず、眠る時間すら惜しかったからです。

しかし、実際に眠れなくなると、眠れないことがこんなに辛いとは思いませんでした。
何が辛いかというと、一人で夜中に起きていると、ものすごい喪失感に苛まれるのです。
孤独感も半端じゃありません。
世界に自分一人だけが存在しているように感じ、仲間も味方も誰もいないように感じます。

眠れないことは、こうした妄想を生み出し、どんどんと悪い方悪い方に考えるようになりました。
正直、私はこんな自分がいるなんて、自分自身でも思ってはいませんでした。
自分は精神的にタフだと自負していましたが、不眠症になってみて初めて、自分がどんなにもろい人間だったのかを知りました。

眠れない日々が続き、状況が改善されなかったため、いよいよ病院に行くことにしました。
簡単に診察をされ、睡眠導入剤などを処方してもらいました。

しかし、薬なんて、ぜんぜん効きません
再度、病院に行き、薬を変えてもらいましたが、結果は同じです。
どうも私は神経が人より過敏らしく、睡眠薬が効かない体質のようでした。

(母親に、「あんたは赤ちゃんの時から物音にもすごく反応をして起きるし、夜泣きもひどいし、ぜんぜん眠ってくれなかった。もうお母さんは寝不足寝不足で、ほんまに大変やったんやで!」と、大人になってから、なじられました・・・(正直、俺は知らんやんと思いましたが。)赤ちゃんのころから、神経が過敏だったようです。)

結局、3度病院を変えて、最後は一番きつい睡眠薬を処方してもらいましたが、一向に改善されず、眠れない日々が続きました

「どうせ効かないなら、飲まない方がマシやん。」と思い、薬を止めたら、今度はさらに悪化しました。
今まで2日に1度は、少しとはいえ眠れたのですが、今度は3日に1度しか眠れなくなりました。

どんどんと悪化し、これまで以上に精神的に追い込まれこのままだと「気が狂ってしまう!」と、思い悩んだ私は、なんとか自分の力で不眠症を直す覚悟をしました。

社長なのにアルバイト

まず、私なりに不眠症を分析しました。
私にとって辛いのは、眠れないことではありません。
辛いのは、虚無感や孤独感を感じることです。

これらを感じる理由は、一人でいるからです。
だから、誰かといればいい。
一人でいなければいいと考えました。

夜に一人でいない方法・・・
夜に働けばいい。
ついでにお金もないから、バイトでもやるか!
と思い立ち、私は会社が終わってから、ホテルのレストランでバイトを始めました。

30歳になって、社長という肩書ながらバイトの面接を受けた時は、いろんな意味で惨めでした。
でも、全て自分の責任。
前に進むしかありません
そうして、私は30歳の時、夜中にアルバイトを始めたのでした。

私の肩書きは、一応『社長』でしたが、実際はフリーター以下の生活です。
朝の9時から夕方の7時まで会社で働く。
夜の8時から次の日の3時まで、ホテルの厨房でコックをする。

もちろん、車もなく、通勤は徒歩か自転車(1台だけありました)。
会社に利益がないため、給料はない
だから、生活費を稼ぐために、嫁さんも昼間は派遣で働いていました。

当時の思い出は・・・会社から自宅への帰り道に、焼き鳥屋さんがあって、これがまた、いいニオイなんです。
その前を通るたびに、「いつかこの焼き鳥屋で、腹いっぱいビールと焼き鳥が食べたいな~」と、嫁さんとよく話していました。

他にも、散髪に行くお金がなくて、嫁さんに髪を切ってもらったら、トラ刈りになったこともあれば、反対に嫁さんの髪の毛を切って、「ななめやんっ!」と、怒られたこともありました。
そんな生活が1年ほど、続きました。

倒産の覚悟

当然、いくら夜を徹して働いても、ビジネスが成功する訳がありません。
バイトでいくら稼いでも、そんなものは焼け石に水です。
どんどんお金は無くなり、このままだと、後3ヶ月ほどで潰れるな~という状況になりました。

この時、私は倒産を覚悟しました

倒産したら、おおよそ2,000~3,000万円の負債を背負うことになります。
でも、当時の私はまだ若く、「何とかガムシャラに働いて借金を返したら、もう一回挑戦しよう!」と、開き直っていました。

覚悟をし、開き直ったら、もう何も怖いものはありません
「思いつく方法を、何でも試してやろう!」と、仕事もプライベートも前に進むことしか考えなくなりました。

そんなとき、前の会社時代に知り合った、宅配業をしているW社長と久しぶりに会いました。
この出会いが、私のビジネスを大きく変えることになりました。

W社長のありえない提案

W社長は、大阪に来られたついでに寄ってくださり、飲みに連れていってくれたのです。
しかしこの時、W社長と知り合ってから合計で10回も会ってなかった程度の薄い関係性です。
なぜ寄ってくれたのかもわからないほどでした。

でも、せっかくの機会ですから、当時はお互いのことをあまり知らなかったので、いろいろな話をしました。
その中で、私は自分の置かれた現状を包み隠さず話しました。

「たぶん、うちはあと2~3カ月で倒産します。」
そう言う私にW社長は、
「へ~、そうなんだ。大変だね~ちなみに、どれぐらいあったら、乗り切れそうなの?」
と、聞いてきました。

意外な質問です。
私は、イマイチ質問の意図も理解できずに、
「そりゃあ、あるだけあったらいいんですけど・・・。」
と、答えました。

私の歯切れの悪い答えに、W社長は、
「あるだけって、どれぐらい?1,000万円ぐらいあったら、とりあえず乗り切れる?」
私は何も考えずに、
「そうですね。1,000万円あったら、当面は乗り切れると思います。」
と、返します。

すると、W社長は、思いもよらぬことを言ってきました
「じゃあさ、1,000万円で、適当になんか化粧品作ってよ。」
もちろん、私の答えは、「はっ???」です。

「何言ってるんですか?W社長は宅配業だし、化粧品なんて関係ないじゃないですか?そんな冗談言わないでくださいよ~」
私は酒の席での冗談だと思って、まともに取り合いませんでした
「この人は、酔っぱらうと適当なこという人だな~」ぐらいにしか考えていませんでした。

「目指すべき人」

でも、冗談ではなく、本気だったのです。 翌日には振込先を聞く電話をかけてきて、本当に、1,000万円を振り込んできてくれたのです。

突然のことに慌てましたが、せっかくW社長が下さったチャンスです。ありがたく、仕事としていただきました。

しかし、今だに私は、なぜW社長がこんなことをしてくれたのか分かりません。 当時、 「なぜ、こんなことをしてくれるんですか?」 と、聞いた私に、W社長は、 「いや~、うちの会社は儲かってるからこれぐらい大したことないんよ。」 と、笑って答えていました。

でも、実は、W社長の言った通りではなかったのです。 その後、W社長の奥さんと会う機会があり、その当時のことを話しました。
「あの時は、本当に助かりました。今があるのは、W社長がくれた仕事のおかげです。」
そう感謝する私に、奥さんは、
「あ~、だから、あの人、郵便局とか銀行の定期を解約してたのか。」
と、ポツリ。

「えっっっ!!!!」
な、な、なんと、W社長の個人的なお金を出してくれていたのです。
しかも、定期預金を切り崩して!

奥さんの話を聞いて、さらに、私にはわけが分からなくなりました。
数回しか会っていない、別に何のつながりもない私に、なぜこんなことをするのか?正直、何かだまされているのかとさえ(笑)思いました。

それぐらい、私の価値観では、W社長の行動は、信じられないものだったです。さらに、その翌年に、当時のことをW社長に話したら、
「えっ、そんなことあったっけ?まぁ~、ええやん、そんな昔のこと。」
と、完全に忘れていました。

忘れたフリをあえてしてくれていたのか、本当に忘れていたのか・・・。
私は、W社長に対して、感謝を超えて、感動しました。
世の中には、私の想像をはるかに超える、とてつもなく『でっかい人』がいる
自分もいつかは、こういう男になりたいと強く思いました。

よく考えると、私はこれまで、「誰かになりたい」なんて、一度も思ったことがありませんでした。
「こうしたい」「ああしたい」という行動や物への欲望はあっても、人に対して、そんな気持ちを持ったことがなかったのです。

思えば、この時に初めて、『目指すべき人』に出会ったのだと思います。
これは、非常に衝撃的でした。

忘れられない言葉

また、W社長は、1,000万円という大金を出してくれただけではなく、毎週のように2時間も時間をかけて、大阪まで来てくれて、飲みに連れていってくれました。
倒産寸前で悪戦苦闘する私を、ただ、励まそうとしてくれたのです。

その時に、まるで呪文のように言ってくれていた言葉があります。
「社長(←私のことをなぜかこう呼びます。自分の方が優れた社長なのに。)大丈夫だって!
社長は、今、たまたま儲かってないだけ。この後、絶対にうまくいく!だから、今のことなんて気にしなくていいよ。必ず成功するから!

何の根拠もなく、軽い口調で、まるで冗談でも言うような感じで、でも、自信に満ちた、思わず信じたくなるような言葉と話し方は今でも忘れません。
この言葉にどれだけ救われたか。

こうして、アースケアはなんとか、倒産をまぬがれたのでした。
さらに、私を救ってくれたのは、 W社長だけではありませんでした

アースケアを救った「すごいお客さん」

W社長が私財で私に仕事をくれた、その時と同じくして、すごいお客さん達にも出会いました
その頃、会社としてはやっていけないものの、ありがたいことに、アクシリオを使ってくださるお客さんは、ほんの少しですがいらっしゃいました。

当時、私はメールマガジンを発行していました。
実は、そのメルマガで、会社の事情を赤裸々に語っていました。
今から考えるとあり得ないことですが・・・。
たぶん、かなり精神的に参っていたのでしょう。
ヤケクソだったんだと思います。

「もう銀行残金も少なくなり、会社も維持できないかも」
「ギリギリまで、諦めずに頑張ります」とか。
そんなことをメルマガで書かれたって、お客さんも困りますよね(苦笑)

普通なら、「倒産寸前」そんな内容を読んだら不信感を持ちますから、そんな会社の商品なんて買わないと思います。 でも、違ったのです。
赤裸々だったのが功を奏したのか?思わぬ反応が返ってきました。

最初は、1通の「大変でしょうけど、頑張ってください!」というメールでした。
それから、どんどん励ましのメールが送られてきたり、電話で直接お声をいただきました。

「大変だろうけど、頑張って!」
「良い商品ですから、自信を持って!」
「ぐずぐず言っても仕方がない!協力するから!」
叱咤激励にとても驚いたのを覚えています。

そのうち、1人でアクアテクトゲルを10本買いする人が現れました。
なぜ1人でそんなにいっぱい買うのか、不思議に思った私はお客さんにその理由を聞きました。
すると、「近所の人にこの化粧品を使ってもらうために買ったのよ。応援してるからね。頑張ってよ。」と。

何と、身銭を切って、うちの商品を買って、周りに宣伝してくれていたのです。
泣けてきましたね。
私なら、こんなことはできません。

倒産寸前の会社の商品なんか、人に宣伝するはずもなく、そこの商品買わなくなって、それで終わり、です。 私ならそうします。
でも、その後もどんどん応援してくださるお客さんが増えていったのです。

ある日、梱包作業をしていて、
「あれ?この住所、さっきも見たような・・・」と、ふと気付きました。
パラパラと納品書や宅配伝票を見てみると、同じ住所がいくつかあるのです。
データを検索すると、何十件と同じ住所が出てきます。
そんなことが、いくつもありました。

「これは、口コミでアクシリオを広げてくださっているのだ!」と、わかりました。
例えば、△△ハイツ201の方が新しくお客さんになったとします。
すると、1カ月後に、△△ハイツ103、△△ハイツ202、△△ハイツ203というように、どんどんと、『△△ハイツ』のお客さんが増えていくのです。
これに気付いた時には、身震いしました

他にも、直筆の励ましの手紙や本などが贈られてきたこともありました。
「これを読んで、頑張って!」と。
このときは、本当に驚きました。
見ず知らずのたかだか無名な化粧品メーカーの若造に、ここまでしてくれる人が世の中にこんなにいるんだと。

やっと気付いた「大きな勘違い」

こうしたお客さんやW社長の無償の行動によって、私の中で大きく考え方が変わりました

それまでは、「自分の考えた最高の化粧品を自分の責任で販売したい」という想いで起業し、仕事をしてきました。
でも、これって良く考えると、「自分のやりたいことだけをやる」ってことなんですよね。
もちろん、こうした強い気持ちがないと前へ進めませんし、悪いことだとは思いません。

しかし、自分のやりたいことをやるだけで、うまく行く訳がありません
なぜなら、そこにはお客さんやスタッフ、その他に自分に協力してくれる人への想いがどこにも、何もないからです。

「自分のやりたいことがお客さんのためになる」ことだと、私は大きな勘違いをしていたのです。
そのことに気づいた私は、「よし!どうせ会社が潰れるならそれまでの間、徹底的にお客さんがどうすれば喜んでくれるか?だけを考えよう!」と、決意しました。

商品は、最高のものだと自信があります。
でも、その他のことは、自分の思い通りに好き勝手やってました。
だから、それをすべて白紙に戻し、お客さんが喜んでくれることを一から作り直しを始めました。

まずは、お客さんに電話やメールをして、実際の意見を聞かせてもらいました。
言われたことは、どんなことでもやりました
もちろん、すべてできたわけではありませんが、以前の私に比べれば、多くのご要望に答えることができたと思います。

例えば、アースケアの商品には、パッケージ(箱)がほとんどありません。
お送りする資料は薄い紙だし、文字もカラーではなく、ほとんどが白黒です。 これは、
「パッケージなんて、どうせ捨てるものだからいらない」
「読めばわかることだから、チャラチャラしなくていい」
「写真やカラーの冊子はキレイだけど、こんなことにお金をかけなくても・・・と思ってしまう」
というお客さんの声を聞いた結果です。
必要なもの以外は、ごくごくシンプルにしています。

また、アースケアの『定期お届けサービス』は、よくある
「最低3回は申し込んでください」などの縛りがありません。
いつでも止めることができます。

これも、
「定期は止められないイメージがあるから怖い」
「もし肌に合わない時を思うと、頼みにくい」
という不安な気持ちを反映した結果です。

TVや雑誌などに、広告を打ちません。
できるだけ商品の種類を増やしません。
アイテムを増やすときには、お客さんに試していただき、その結果、満足いただけた場合のみ発売します。

こういった部分は、化粧品業界の通販ではあまり目にしないと思います。
これらすべてはお客さんの要望から、決めた結果です。

私が良かれと思ってやっていたことの中には、お客さんにとっては何の価値もないこともあったのです。
つまり、自分の思い込みだけで、無駄なお金や労力をかけて、お客さんのためにならないことをしていたってことがわかりました。

こういったことを、一つ一つ改善していくうちに、どんどんお客さんが増えていきました。
もちろん、CMや雑誌にガンガン広告を出している化粧品メーカーに比べれば微々たるものです。
でも、私にとっては、十分すぎるほど、たくさんの数のお客さんです。

こうして、お客さんから様々なことを教えてもらい、改善に努めた結果、なんとか、倒産の危機もギリギリ回避することができました。
本当に危機一髪でした。
一番危なかった時で、会社の口座には5万円しかありませんでしたから(笑)。

本当の幸せ

このときから私は、お客さん目線で全て判断することを決意しました。
とにかくお客さんをはじめとする自分の周りがどうすれば喜ぶのか?
幸せになるのか?
四六時中、そのことを考えることを。

そのお陰か?
お客さんやスタッフに恵まれているのか?
嫁さんが協力してくれているからか?

たぶん、全部でしょうね。
今現在、私は楽しく仕事をすることが出来ています。
自分の人生は、十分すぎるほど幸せなものです。

もちろん、悩みや辛いことがないわけではありません。
でも、それ以上に大きな幸せがあります。

その大きな幸せの中には、私たちがご提供する商品を使っていただいて、喜んでくださるお客さんがいる
自分の好きなことをして、誰かが喜んでくれる。
本当に幸せなことです。

自分のことしか考えていなければ、何も思い通りにはならない。
でも、人の幸せを考えて行動すれば、いつの間にか自分の願いも叶う
これは、世の中の本質だと思います。

これからも、多くのお客さんと一緒に歩んで行くことができれば、こんなに幸せなことはありません。
そんな幸せな日が一日でも長く続きますように・・・。
どうすれば、お客さんが喜んでくれるのか?を考えながら・・・もちろん、あなたとも一緒に歩んで行ければ、こんなに嬉しいことはありません

アクシリオ開発者  井上龍弥

アースケアについて


会社概要

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開発者のプロフィール

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私が化粧品を作った理由

『私が化粧品を作った理由』

26歳の男性が、なぜ化粧品づくりを決意したのか?

無名であることが、私たちの誇りです

『無名』であること、それが私たちの誇りです

私達が、小さな化粧品会社であり続けたいと思う理由